ブレードランナー ファイナル・カット


★film rating: A
※A、B、Cの3段階を、さらにそれぞれ+、non、-で評価しています。

2019年ロスアンジェルス。地球外惑星での危険な任務では、遺伝子工学による人造人間レプリカントたちが奴隷として使われていた。ところがレプリカント数名が脱走し、宇宙船を奪って乗員全員を殺害。引退したブレードランナーのリック・デッカードハリソン・フォード)は、地球に戻って来たレプリカントの捜索/処刑を命じられる。レプリカントたちが自らにとって危険な地球に戻って来た理由とは何か。デッカードは任務を全う出来るのか。


1982年に製作されたSFハードボイルド映画『ブレードランナー』は、公開当時に散々な不評と燦々たる興行成績によりすぐに上映が打ち切られ、製作会社ラッド・カンパニーの後の倒産原因の1つともなった、などとは今では嘘のようです。地平線を埋め尽くす高層ビル群。日本語英語が入り乱れる派手なネオン看板。道路は人ごみで溢れ、陸も空もスピナー(空陸両用車)で交通渋滞。そして降り止むことの無い酸性雨。これらの陰鬱なヴィジュアル・スタイルがSFのみならず、様々な映画や広告、コミックにまで多大な影響を与えたのは周知の通りです。


初公開時では惨敗してもヴィデオによって人気を高めた本作品は、ワーナーのドル箱となります。幾たびものヴィデオやレーザーディスクによるリリースを経て、1992年には監督リドリー・スコット自らによって再編集された『ディレクターズ・カット』が公開。初公開時に不評だった全編に渡るハリソン・フォードのモノローグと、取って付けたようなハッピーエンドを削除し(皮肉にも、どちらも初公開前の試写を観た観客の意見によって追加されたものでした)、デッカードレプリカントかも知れないと受け取れるようなユニコーンの夢シークェンスを追加したのです。


僕自身はこの映画を劇場で鑑賞するのは、今回の『ファイナル・カット』で3度目です。最初は中学生のときに、三軒茶屋東映にて『エイリアン』と『遊星からの物体X』との3本立てを観ました(「リドリー・スコット2本立て+1」と『物体X』は完全に添え物扱いでした。『物体X』も後に人気が出るのはヴィデオのお蔭です)。繰り返し上映されたであろうフィルムは、酸性雨だけではなく傷の雨も降っていましたが、徹底して作り込まれた人工世界の美しさに感動したものです。それから渋谷パンテオンでの東京国際ファンタスティック映画祭における『ディレクターズ・カット』鑑賞。これが一番大きな画面でした。


今回は公開25周年を記念して、リドリー・スコットが再び再編集と追加撮影を行った決定版との触れ込み。1992年時には「最終版」などと言っていたのに、などと思いつつも、これで劇場での大画面で観られる機会も最後かも知れないと思い、いそいそと劇場に出掛けました。


さて大阪と東京での2館のみ限定公開の映画は、フィルムではなくDLP上映。つまりはハードディスクに収録された映像を、デジタル・プロジェクターにて映し出す方式でした。時折公開されているこの方式、私は初体験です。綺麗になったとの評判でしたが、さてどんなものかと思いきや。


冒頭のラッド・カンパニーのロゴで「む、これは・・・」と思い、その後のいきなりクリアな黒地に赤文字のオープニング・タイトルでびっくりです。まるで新作のよう。いや、正確には新作Blu-rayディスクのような鮮鋭感。そして「2019年 ロサンジェルス」の文字の後に出現する、大工業地帯の映像にこれまたびっくり。巨大な火柱を上げる鉄塔のミニチュアの細部までが、くっきりと見えるのですから。いやはや、これが何度も何度も観た映画か。


これはレプリカント製造元であるタイレル社のピラミッド・ビルのミニチュア映像でも同様です。映像がクリアになった分、ミニチュアはミニチュアと分かりやすい。しかし細部まで丁寧に作り込んでいる為に、まるでチャチではありません。殆どがCGIで作られる最近の映画には無い手作り感、職人芸を眺める感動があります。


但しDLP上映の問題なのでしょうか、元の素材の問題なのでしょうか。人物の顔のアップになると、フィルム粒子とは違う粗い粒子が気になりました。フィルム傷を除去し、色が調整され、それをHD映像として上映している筈ですから、ちょっと理由が気になります。気になったと言えば、字幕も初公開当時と同じもののようです。冒頭の解説文章も最後が省略されたままだし、各所の意訳や翻訳省略がそのままでした。


映画本編は基本的に『ディレクターズ・カット』に準じたもの。『完全版』にあった残酷描写を復活させたり、実物大ポリス・スピナーを吊るす太いケーブルを消去したりしていますが、降りしきる雨はスピナーのケーブルを誤魔化す為のものだった筈なのに、消去されたら本来の意味が無いではないか、などという突っ込みはさておき。


女性レプリカントであるゾラ殺害場面では、スローモーションでガラスに突っ込むのは明らかにスタントウーマンだった筈ですが、今回は違和感がありませんでした。実は女優のジョアナ・キャシディを使って再撮影し、顔を挿げ替えたと後で知りました。25年経っての再撮影ですから、顔付きも当時に合わせて調整したのでしょう。こういった合成や修正技術もデジタルのお陰です。


スピナーのマット・ライン(合成の線)も薄くなっていたような気がしましたが、これは気のせいかも知れません。


僕自身は残酷描写の復活に疑問が沸きました。これらは果たして必要だったのか、と。ですから『ディレクターズ・カット』の方が好みであります。


初公開版にあったリック・デッカードのモノローグが無いことにより、デッカードも含めて各登場人物が何を考えているのかが分かりにくくなったのは、『ディレクターズ・カット』同様。描かれているのは人物の台詞や行動のみです。これにより観客の解釈に任されることが多くなり、映画として面白みが増したというのが僕自身の感想です。モノローグはハードボイルド文学風であれはあれで面白かったのですが。


ヴィジュアル・スタイルばかり語られることの多い映画ですが、改めて観ると内容も面白い。感情を押し殺して任務を全うすべく、レプリカントを次々射殺しているデッカードデッカードだけではなく、登場する人間たちは感情を失ってさえいるように見えます。感情が芽生えると面倒だと、寿命を4年に設定した人間たちの非人間性。一方、自らの限られた生を何とか延ばしたいと、創造主たる人間を憎みながら道を探るレプリカントたち。彼らは設計上は人間よりも感情に乏しい筈にも関わらず、恐怖や恋愛が芽生えています。殺された恋人を悲しんで遠吠えする場面など、人間の原初の感情を見せられたかのよう。こういった道徳的命題はクローンの倫理的問題に繋がり、製作当時よりも現代の方が似つかわしいように思えます。


生を求める為に人間たちを殺戮していくレプリカントと、彼らを追って殺戮するデッカード。両者共にそのような共通点があるのに、デッカードよりもレプリカントたちの生き様の方が、より強烈な姿となって浮き上がっています。彼らは4年という限られた寿命だけではなく、デッカードに象徴される死からも逃れようとします。彼らにとっては生きることとは戦いなのか。あるいは戦うこととは生きることなのか。このテーマはリドリー・スコットの監督デヴュー作『デュエリスト/決闘者』(1977)に通じるものがあります。


役者では大スターへの道を歩み始めていたハリソン・フォードよりも、レプリカントのリーダー、ロイ・バティ役ルトガー・ハウアーが眩しい。短い銀髪と野性味溢れる容貌。がっしりとしながらも不自然に筋肉質ではない体躯。哀愁と憎しみに満ちた眼差しが、アン・ライスを始めとする女性たちを虜にしたのもうなずけます。また、デッカードと恋に落ちるレプリカント、レイチェル役ショーン・ヤングの人間離れした美しさも目を引きました。ハウアーやヤングらどこか現実離れした美男美女を配したのも、人工世界構築の一要素なのです。


今となって興味深いのは、ディストピアとして描かれた筈の未来都市が、結果的にユートピアとなったこと。アールデコやアジアンテイストが入り混じった、薄汚れ、常に酸性雨が降っている、人心も建造物も荒廃した都市は、観る者にとって魅力的な芸術的眺望となったのですから。


十数年振りの大画面『ブレードランナー』は、これぞ劇場で「体験する」映画だと思わせました。冒頭の空撮の怖さは、『2001年宇宙の旅』にあった宇宙空間の恐怖と同様のもの。映画は派手な特撮場面や広々とした空間描写は前半に集中させ、徐々に登場人物たちが絞られて行くのに併せて、空間を狭めて物語を収斂させていきます。その効果を体感するには、劇場の大画面こそが相応しい。今回のシネコンで割り当てられていたスクリーンはミニシアター程度の規模でしたが、それでも体験と呼ぶに相応しいものでした。


脚本に辻褄が合わない箇所はいつ見ても気になりますが、今となっては観客が行間を埋めて脳内で物語を作っていけば良いのでしょう。これぞ模造記憶の移植を扱った映画に相応しい。俳優や映像の美しさ、ヴァンゲリスの美しくも不安を煽り立てる音楽、セットや衣装などの極めて優秀なデザインと、各スタッフの力量を引き出したリドリー・スコット監督作品は、やはり名作なのです。


ブレードランナー ファイナル・カット
Blade Runner: The Final Cut