ラスト、コーション


★film rating: A
※A、B、Cの3段階を、さらにそれぞれ+、non、-で評価しています。

1938年。激化する日中戦争によって中国本土から香港に疎開してきた女子大生のワン(タン・ウェイ)は、大学の先輩クァン(ワン・リーホン)に心惹かれ、彼が率いる演劇部に入る。演劇部は抗日運動を掲げており、やがて彼ら部員は日本政府の傀儡となっている情報機関のボス、イー(トニー・レオン)を暗殺しようと企てる。美貌の持ち主であり女優の才能に恵まれているワンは、貿易商の妻マイ夫人と名乗り、イーに近付くが。


ジェーン・オースティン原作の英国文芸ドラマ『いつか晴れた日に』(1995)、西部劇『楽園をください』(1999)、武侠アクション『グリーン・デスティニー』(2000)、アメコミ作品『ハルク』(2003)。完成度の波は多少あるものの、総じて質が高くて駄作を撮らず、ジャンルや国境を軽々と越えた作品を発表し、それでも自らのフェミニン・タッチの個性を残す映画を次々と発表する、台湾出身の監督アン・リー。彼が傑作『ブロークバック・マウンテン』(2005)の次に撮ったのは、アイリーン・チャンの短編小説を映画化したスパイ・スリラーでした。結果、緊張で胸が痛くなるような作品に仕上がっています。


映画は前半と後半の2部構成となっています。


前半では香港を舞台に、情報機関幹部を暗殺せんとする演劇学生たちの活動を描きます。学生たちは浅薄な考え、どこかしら軽いノリで抗日運動を始め、のめり込み、遂には後戻り出来ないところまで行ってしまいます。特に序盤は彼らの姿を浮き彫りにする、非常に素晴らしい描写の数々が観られ、青春映画としての側面さえあります。初舞台で大成功を収めて、酒を飲み明かして夜の街を闊歩する様や、路面バス(電車だったか)での場面。若さと高揚、陶酔が描かれており、こういった瑞々しい描写があってからこそ、スパイ活動を始めてからの戸惑いや、初めて人を殺害する場面の生々しさ、第2部の息詰まる展開が引き立ちます。


後半では舞台を上海に変え、ワンとイーの関係が中心となります。今年2月の劇場公開当時はセックス描写ばかりが話題となりましたが、日本ならではのボカシと、様々な体位でもって、正直言ってエロスよりも微苦笑を誘われました。間抜けなボカシにも要因があるのでしょうが、果たしてこの映画には新体操の様な描写で良かったのか。互いに仮面を被った男女の秘め事も数少ない感情の発露として描くならば、もっと生々しく、人間的に描く方向もあったのではないでしょうか。正直に言って、観ながらそう思いました。


しかしこの映画が描いている主題を考えれば、そういった手法も後から納得がいくものとなっています。中国と日本、ワンとイー、そして政治。感情を押し殺したものもあれば、感情の発露もある。ベッドシーンだけではなく、ワンとイーの恋愛ですら、本性を隠した男女の演技のぶつかり合いとさえ受け取れます。戦闘場面こそ無けれども、戦いが主題だと受け取るのが自然でしょう。


ワンはイーを愛する女を演じているのに、自分でもそれが本当なのか演技なのか分からなくなってしまいます。スパイとしての苦しい心情を吐露する場面があり、自分でも制御出来ない混乱がこちらの胸に突き刺さります。人は皆、周りから期待されている自分を演じているのか。例えば善き家庭人、有能な会社員、周りを盛り上げるムードメイカー。単なる演技なのか、本性なのか。「演技」というテーマも映画の核でもあります。


ヒロインを演じたタン・ウェイは本当に素晴らしい。恵まれたルックスだけではなく、場面によっての演じ分けも見事。堂々たる演技で、主演はおろか映画初出演とは思えません。初々しい学生の場面。スパイとして冷静に有閑マダムを演じる場面(そう、彼女は常に敵の前で演じているのです)。珍しくも敵役のトニー・レオンと互角か、時にはそれ以上の存在感。楽しみな大型新人が登場したものです。この映画に出演したことにより、現在では中国当局からの圧力で、マスコミによる取材やマスコミへの露出が禁じられている身となってしまいましたが・・・。


映画が進むに連れ、ワンとイーの関係も少しずつ変化して行きます。用心深いが故に、また他人に心を許さないが故に、冷徹なスパイ幹部であるイー。彼が一瞬浮かべる涙や笑みに、残されたわずかな人間性が感じ取られ、感動的ですらあります。ですがイーはワンにとって単なる愛人ではなく敵でもあり、裏では着々とイー暗殺計画の準備が進められています。暗殺が成功しても、暗殺が失敗しても、観客の望まない結末は不可避です。静かに語られながらも、映画の後半は息詰まるような緊張が高まります。そしてクライマクス。トニー・レオンが脱兎の如く走る場面の、静から動への転換。感情を排した冷徹な幕切れ。演出も脚本もまこと見事でした。


戦争に翻弄される若者たちを題材にし、また同じく戦争に翻弄されるヒロインを描くこの映画。登場人物の内面を、台詞に頼らずに俳優の演技力と映像で描き、多くを観客の解釈に任せたのも、アン・リーらしい。


これはスリラーとしても、戦争映画としても、政治映画としても、恋愛映画としても、色々な読み解きが可能な奥の深い作品なのです。


ラスト、コーション
Lust, Caution (色・戒)

  • 2008年 / アメリカ、中国、台湾、香港 / カラー / 157分 / 画面比1.85:1
  • 映倫(日本):R-18指定
  • MPAA(USA):Rated NC-17 for some explicit sexuality; Rated R for strong sexual content and a scene of brutal violence (edited version).
  • 劇場公開日:2008.2.2.
  • 鑑賞日:2008.2.11./ワーナーマイカルシネマズ港北ニュータウン4 ドルビーデジタルでの上映。3連休中日である先行上映2日目の日曜13時15分からの回、196席の劇場は9割の入り。
  • 公式サイト:http://www.wisepolicy.com/lust_caution/ 予告編、キャスト&スタッフ紹介、プロダクション・ノート、アン・リーからのメッセージ、アン・リーや主要キャストへのインタヴューなど。