イースタン・プロミス


★film rating: A
※A、B、Cの3段階を、さらにそれぞれ+、non、-で評価しています。

ロンドン市内の病院に担ぎ込まれた身元不明の少女は、赤子を産み落とすと息を引き取った。助産婦のアナ(ナオミ・ワッツ)は赤子を少女の親類に帰そうと、少女の持っていた日記を手に入れる。ロシア語で書かれていた日記を読めない彼女は、ページに挟まれていたカードに書かれていたレストランに向かう。そこには愛想の良い老オーナーのセミオン(アーミン・ミューラー=シュタール)、出来の悪そうな息子キリル(ヴァンサン・カッセル)、運転手のニコライ(ヴィゴ・モーテンセン)というロシア人の男たちがいた。やがてアナは、日記の恐るべき内容を知る。


ヒストリー・オブ・バイオレンス』(2005)に引き続いての、デヴィッド・クローネンバーグ監督×ヴィゴ・モーテンセン主演作品は、またも素晴らしい仕上がりになりました。殺気と緊張に満ち、仄かな色香を漂わせ、観終えた後に静かな余韻を残します。含蓄あるスリラーだった前作に対して本作を単なる娯楽スリラーと片付ける向きもあるようですが、こちらにも深みがあります。


現在のロンドンはロシアからの移民が多く、その中では貧富の格差が広がっているそうです。リトビネンコ暗殺事件によって、ロンドン在住のロシア移民の存在がクローズアップされたのは記憶に新しい。あれは富裕階級で起きた事件ですが、富裕階級と下層階級の間を埋める存在がロシアン・マフィアなのだそうです。この映画は、そのロシアン・マフィアを描いた作品でもあります。


セミオン老は最初は親切にアナを迎えてくれますが、その正体はロシアン・マフィアの冷酷非情なボス。家族と組織を大切にしながらも、それ以外の他者には非情。しかし呑んだくれている息子キリルには厳しく接しています。アーミン・ミューラー=シュタールは、表の顔と裏の顔を違和感無く演じています。が、観る者を震え上がらせるくらいの恐ろしさを、裏の顔としてもっと表現出来ていればと思いました。


キリルは酒浸りで売春宿に入り浸り。自らも出来の悪い後継者と意識していて、最近は切れ者のニコライへ愛憎入り混じった思いを抱くようになります。ヴァンサン・カッセルはメイクだけではなく演技でも自然に若く見せ、不安定で劣等感に苛まれている「不肖の息子」を、強く印象付けることに成功しています。


この映画で一番強烈なのは、運転手ニコライを演じるヴィゴ・モーテンセンでしょう。オールバックにダーク・スーツで決めていますが、眼光は鋭く、眉一つ動かさずに死体の処理を行い、常に緊張感を漂わせています。特に異様なのがその肉体です。贅肉一つ無い、鍛え上げられた身体には無数の刺青が彫り込まれており、骸骨に皮が張り付いたような顔付きと落ち窪んだ目と相まって、まるで死神のよう。筋肉の鎧をまとい、心の本音を隠している無表情さに、それまでの過酷な生き様が伝わってきます。しかし非情なだけではなく時折優しさも見せ、観客のこの男の正体への興味をそそらせます。個性的な脇役が多かったヴィゴ・モーテンセンは、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのアラゴルン役で一躍スターになりましたが、クローネンバーグとのコンビ作品では、アラゴルン以前のような癖のある役柄。いずれも彼のどこか暗さのある、秘密を抱えているように見える個性に合った役柄で、特に本作ではひと際輝いています。色気さえ感じさせ、これは彼の代表作になりました。


マフィア役の主要3人の俳優は、それぞれドイツ人、フランス人、デンマークのハーフであるアメリカ人と、ロシア系ではない配役なのも面白い。


強烈な男たちに比べると、ナオミ・ワッツの影はやや薄い。暗黒街に棲む彼らに対し、一般人であるアナは市井の人、普通の存在です。自らのつらい過去を引きずりながらも、純粋な愛情や正義、怒りを体現するヒロイン像はよく描かれています。観客の代理としての視点を担っているのですが、それ故に観客の眼が彼女ではなく、暗闇の住人に向いてしまうのは仕方が無いことなのかも知れません。それだけこの映画のロシアン・マフィア像は鮮烈です。


ロンドンにいても母国語であるロシア語を話し、ロシア料理を食べ、1つの閉じた世界を作り、住んでいる。全身に施した刺青で自らの素性を物語り、一般人には理解出来ない掟に従い、忌まわしい犯罪を犯しながら生きている。そして一員になる儀式。ロシアン・マフィアが映画でここまで描かれたのは、恐らく初めてではないでしょうか。


もっとも映画の主眼はロシアン・マフィアの実態ではなく、主要人物らの織り成す心理と緊張にあります。物語が進むに連れ、一見して単純に見えていたような人物の思惑や、謎に包まれた真意が明らかになっていきます。無駄の無いストイックな映像と編集でコンパクトに仕上がった映画は、しかしながら内容も奥深い。キャンバスに描かれているのは事件や心理の一部であり、画面外の出来事や台詞で語られない心情については、観客が推測し、想像するしかありません。セミオンの息子に対する思いは。終盤のニコライの心情は。人物の行動を通して語られる真相はスリリングです。クローネンバーグ作品常連のハワード・ショアによる音楽も物悲しく、映画をさり気なく盛り上げます。


映画に極度の緊張をもたらしているのが、幾度かの暴力描写です。マフィア映画の常と違って銃器は一切登場せず、殺人は全て刃物によるもの。人間が肉を切り裂かれ、おびただしい血を流して絶命します。特に強烈なのは、公衆浴場でニコライが暗殺者たちに襲われ、応戦する格闘場面です。『ボーン・アイデンティティー』(2002)シリーズのような素早いカッティングではなく、何がどうなっているのかをじっくり見せる映像は、生々しい臨場感と迫力に満ち、凄まじい。全裸で無防備なニコライと、皮ジャンにナイフの暗殺者たちが繰り広げる死闘は、映画史に残る場面となりました。


キャリアの初期から一貫して、デヴィッド・クローネンバーグは肉体とテクノロジーの融合を、SFやホラーの形で描いてきました。ここ2作では一見するとそれとは無関係のスリラーを監督したように見えます。しかし本作もニコライの肉体の描写や、あるいは人間の集合体である組織の変容=乗っ取りと受け取れるラストを見るに付け、これもまたクローネンバーグらしいテーマを含んだ傑作だと言えるのです。


イースタン・プロミス
Eastern Promises

  • 2007年 / イギリス、カナダ、アメリカ / カラー / 100分 / 画面比1.85:1
  • 映倫(日本):R-18
  • MPAA(USA):Rated R for strong brutal and bloody violence, some graphic sexuality, language and nudity.
  • 劇場公開日:2008.6.14.
  • 鑑賞日:2008.6.14./109シネマズ川崎3 ドルビーデジタル上映での上映。公開2日目の日曜13時15分からの回、103席の劇場はほぼ満席。
  • 公式サイト:http://www.easternpromise.jp/ 予告編、キャスト&スタッフ紹介、プロダクション・ノート、壁紙ダウンロード、ヴィゴ・モーテンセン生写真プレゼントなど。