善き人のためのソナタ


★film rating: A
※A、B、Cの3段階を、さらにそれぞれ+、non、-で評価しています。

1984年、壁崩壊前の東ベルリン。ヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)は、冷徹なまでに職務に忠実な、国家に忠誠を誓う優秀な国家保安省(シュタージ)局員だった。ヴィースラーは、劇作家ドライマン(セバスチャン・コッホ)とその同棲相手である女優クリスタ(マルティナ・ゲデック)が反体制分子である証拠を掴むよう、上層部からの指令を受ける。恋人たちのアパートの至るところに盗聴器を隠し、徹底した監視を開始するが、彼らの会話や奏でられる音楽、愛し合う姿が、ヴィースラーに変化を及ぼしていく。


旧東ドイツの徹底した管理社会体制が映画になるのは珍しい。シュタージを前面に出した映画も初めてとのこと。それだけ、今尚旧東ドイツの人々の心に傷を残しているのだそうです。


この映画で描かれるのは、監視、密告、裏切り。恋人や友人でさえも信頼が置けない世界です。この非情な世界で豊かな人間関係を構築するのは、いや豊かで人間らしい心を保ち続けるのは、さぞかし難しいことに違いありません。


ヴィースラーは体制に何の疑問を挟まず、非情で有能な男として登場します。演じるウルリッヒ・ミューエは初めて見る役者ですが、全体に無表情で台詞も限られた中で表情を見せるのが上手い。映画全体の抑制されたトーンの体現者そのものです。彼が孤独ゆえに非情な男になったのではないか、と思わせます。愛を交わす恋人たちに感化されて太った娼婦を抱くものの、仕事を終えて去る娼婦に「行かないでくれ」と言う姿が物悲しい。


劇作家ドライマンは寡黙なヴィースラーと対照的な男です。よく喋り、じっとしていることが無い。自らの内面を吐き出すように執筆し、やがて生き方が変わっていきます。演じるセバスチャン・コッホは、ウルリッヒ・ミューエと逆に攻撃的で情熱的な演技が印象的です。


ドライマンの恋人クリスタは、スターでありながら不安にさいなまれています。違法薬物に頼り、この社会での保証の為に嫌悪する大物政治家にさえ身を任せます。マルティナ・ゲデックは女優らしい華もありつつ、欧州女優ならではの生活感をたたえ、現実的な人物像を作り上げました。


正直に言って、序盤は余り乗れない映画でした。淡々としているだけで、求心力が無いように感じたのです。それが次第に調子を上げていくのだから面白い。立ち上がりの悪い本格派投手と申しましょうか。エンジンが掛かって力強いタッチでぐいぐいと押し始めて行く映画は、やがて画面から目が離せなくなります。特に後半は予想だにしなかった展開となっており、彼ら3人の人生の歯車がきしみながら回転していく様を、息を呑んで見守るしかありません。物語が、登場人物たちの心理が、緊迫感を高まらせていきます。その先にあるのは、温かな人間性と感動。若干33歳のフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクは、見事な脚本と演出で長編デヴューを飾りました。複雑で立体的な人物像をユーモアを交えながら緩急自在に語る術でありながら、老成していない。変に年老いた映画となっていないのは、彼の人間を見つめる目によるものなのではないでしょうか。考えてみれば、最後は人間の善性を信じる感性そのものが、若々しさの証しなのでしょう。


映画のラストで見せるヴィースラーの微かな微笑みが素晴らしい。その微笑みは、一部の人間だけに許される、誇りと満足感によるものだったのではないでしょうか。


心に残る秀作として、『善き人のためのソナタ』はお薦めの作品です。


善き人のためのソナタ
Das Leben der Anderen

  • 2006年 / ドイツ / カラー / 137分 / 画面比2.35:1
  • 映倫(日本):(指定無し)
  • MPAA(USA):Rated R for some sexuality/nudity.
  • 劇場公開日:2007.2.10.
  • 鑑賞日:2007.3.21./シネマライズ ルビーデジタル上映での上映。春分の日の水曜日13時45分からの回、渋谷道玄坂にある220席の劇場は7割の入り。アカデミー賞受賞(外国語映画賞)効果か。
  • 公式サイト:http://www.yokihito.com/ 予告編、監督来日インタヴュー動画、スタッフ/キャスト紹介、映画の背景を知るための用語集、東ドイツ地図など。