幸せのちから


★film rating: B
※A、B、Cの3段階を、さらにそれぞれ+、non、-で評価しています。

1981年のサンフランシスコ。医療機器セールスマンのクリス・ガードナー(ウィル・スミス)は切羽詰っていた。収入はろくに無く、同居人リンダ(タンディ・ニュートン)に愛想を尽かされ、5歳の愛息クリストファー(ジェイデン・クリストファー・サイア・スミス)と共に残されてしまう。家賃も払えずに家を追い出され、公衆トイレや教会に泊まる日々。クリスは一発逆転を狙うべく、一流証券会社の研修生となる。20人の研修生の中から採用されるのは1人のみ。正社員になれる保証も無く、半年もの研修期間中は無給。クリスは逆境にもへこたれずに、息子への深い愛情を注ぐが。


スーツ姿のホームレスから億万長者になった男の実話もの。と言っても映画はかなり脚色されているようだ。例えばリンダは何人かのキャラクターを統合したものだとか、クリストファーは当時1歳で元パートナーの元に引き取られていたとか、研修期間中は低賃金であっても無給ではなかったとか。映画はクリス・ガードナーが越えなくてはならない障害を高くしており、実話ものといっても鵜呑みに出来ないのはハリウッド映画の常。でもそれがこの映画の欠点にはなっていない。英語圏初登場のガブリエレ・ムッチーノの演出は全体にテンポ良く、さらりとした品の良い演出を心がけているので、気分良く観ていられる。


御贔屓スターのウィル・スミスは、満点パパを伸び伸び演じている。自分が絶望の淵に立たされていても、子供には優しく、ユーモアを忘れず、しかし言うべきことは言う。頭の回転が速く、ウィットに富み、大変な努力家であるクリスは、この手の立身出世ものの主役に相応しい。こういった役も自分に引き寄せる辺り、スミスの芸域が広がる様子がリアルタイムに観られるのも映画ファンの喜びである。


思えば『バッドボーイズ』(1995)や『インデペンデンス・デイ』(1996)の頃から、派手な特撮やアクションに埋没しない稀有なスターとしてウィル・スミスを楽しませてもらっている。彼の特徴はハンサムだけれども愛嬌のある顔付きよりも、長い手足に肉体的個性が宿っているように思えて仕方ない


本作では、スミスがスーツ姿でサンフランシスコを駆けずり回る場面が幾度と無く挿入されている。筋肉質なのに、その細くしなやかな動きは現実的な肉体を感じさせない。かつてニューヨーク・メッツで活躍したダリル・ストロベリーを思い出すと言ったら大袈裟かも知れないが、僕の中ではスミスとストロベリーは見栄えのする井出立ちという点で一致している。ウィル・スミスには砂塵舞う荒野よりも、陽光注ぐアスファルトの都会が似つかわしい。真剣であっても不必要に深刻にはならない。無骨さと無縁の都会的洗練が身上だ。


そういった意味で、本作では演技の力量だけではなく己の見た目にも相応しい作品として、スターとしても製作者としてもスミスの眼の確かさがよく分かる作品となっている。


しかしながら「スターも子供と動物には勝てない」ジンクス通り、スミスも実の息子であるジェイデン・クリストファー・サイア・スミスに食われ気味だ。わざとらしさの無い自然な感情の発露(に見える)を見せる幼子には、幾ら素晴らしいとは言え「演技」が負けるということだろうか。


この作品に重度の感動を求める観客は当てが外れる可能性がありそうだ。スミスのフットワークだけではなく、作品自体も軽いのである。全財産を投げ打って高級医療機器を多数買い、それを病院に売り込もうとする行動の軽さ。売れなかった場合はどうするのか。過酷な現実世界そのものであるリンダに愛想尽かされるのも当然だろう。リンダ役タンディ・ニュートンは出番も少なく難しい役どころだが、非常に説得力のある演技を披露している。一歩間違えばヒステリックで観客の反感を一気に買うだけになるところを、共感を呼ぶ地に足の着いた女性像を作り上げた。


映画はリンダ退場後も、クリス・ガードナーの奇妙な行動を追い続ける。医療機器に見切りを付けたら、フェラーリに乗っている男の話を聞いて証券ディーラーを目指す。ハイリスク、ハイリターン。先のことなど、失敗する可能性など考えない。研修期間中は無収入なので、週末は手元にある医療機器を売ろうとするのだが、その取り扱いも落としたり無くしたりで乱暴極まりない。生活が掛かっている商品とは思えぬ扱いだ。


このクリス・ガードナーは単なるホームレスではない。当時、世界的に大流行したあの玩具も解いてしまう頭脳明晰振りを発揮し、口が達者でも誠実、医療機器の修理も自分で行ってしまう、ある種の天才とも言える。スミスが個性を発揮して好演しているので、奇妙な筈の行動の数々も余計に安心して観ていられる。安心して観ていられるのは、裏返して言えば意外性も感動も薄いということ。主人公をどう見るかによって、作品に対する観客の没入感の差を分けるものとなっている。


原題の「Happyness」は「Happiness」の意図的な綴り違い。お間違えなく。


幸せのちから
The Pursuite of Happyness