父親たちの星条旗


★film rating: A-
※A、B、Cの3段階を、さらにそれぞれ+、non、-で評価しています。

1945年2月。日本ののぼ最南端に位置する東西わずか8kmの硫黄島を戦略上の最重要拠点としたアメリカ軍は、島に攻め込むも日本軍の予想以上に猛烈な抵抗に苦しめられ、数多くの死傷者を出す。そんな中、1枚の写真が撮られた。擂鉢山にアメリカ兵たちが星条旗を立てた瞬間を写し出したものだ。写真に写っていた6人の内、生き残った若い3人の兵士たちは帰国後、政府の宣伝によって英雄に祭り上げられていく。


ミスティック・リバー』(2003)、『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)と、立て続けに大傑作を叩き出したクリント・イーストウッドの新作は、スティーヴン・スピルバーグという強固な後ろ盾を得た、彼にしては珍しい大作戦争映画だ。しかしながら低予算映画を撮っているいつもと変わらず、その立場や姿勢に一寸のブレも無い。


映画で描かれる時制は3つ。硫黄島での激しい戦闘。兵士たちの帰国後の喧騒と孤独。兵士の1人の息子(=原作者)による、生き証人へのインタヴューを描いた静かな現代。観客の知性を信じたこの3つの時制を交錯して操る手腕はさすが。それによって戦争の激しさ・恐ろしさ・虚しさが浮かび上がる構図だ。壮観で壮絶な戦闘場面と複雑な構成によって、大作らしい空間の広がりが感じられるが、作品そのものの持つ風格は、イーストウッドの持つそれに他ならない。研ぎ澄まされ、無駄を排した簡潔なタッチは、冷静であっても冷徹ではない。焦点が当てられる3人の兵士たちに対する眼差しは、世間の英雄扱いと本来の自分との間に違和感を抱く彼らに、温情を持って接している。


ある者はじっと耐え忍び、ある者は世渡りの好機とばかりに踊ってみせる。そしてある者は苦悩に悶える。名声とどのように向き合うか。これも複雑な仕上がりとなった映画が持つテーマの1つだ。主人公たちの中では、苦悩するアメリカ先住民のチーフ役アダム・ビーチの演技が、特に素晴らしく胸を打つ。それでも、3人の兵士たちの描き込みが的確なのに巨大なカンバスにおいて個人の印象がやや薄いのは、イーストウッド作品としては珍しい。今までの彼は、組織の中での個、組織に対する個を描き続けていたのだから。それがこの作品の短所であり、前2作に比べて心の奥底までは響かない理由である。


この作品が画期的なのは、戦争には巨額の資金が必要であるとした点。加えて、資金集めの為にはなりふり構わず策を弄するのが政府である、とした点にある。ご覧になった方もきっと多いに違いない、非常に有名な硫黄島の写真がヤラセだったのは知っていた。しかし第二次大戦末期、アメリカ政府は戦争によって資金が尽きかけており、撤退寸前だった。資金を集める為に国民に国債を買わせるべく、国威掲揚として硫黄島の写真を使っていたというのは、この映画で初めて知った。また、写真撮影時は勝利の瞬間では無く、その後も戦闘は2週間以上も続き、日米両軍に多大な損害を与えたのも、この映画で知った。こうして戦時国債によって資金集めに成功したアメリカ政府は、戦争から脱落することなく、第二次世界大戦の勝者となったのである。


劇中で描かれるアメリカ政府のやり口は、イラク戦争の美談とされたエピソードが実はヤラセだった「ジェシカ・リンチ事件」を思わせる。ここから映画のメッセージを察するのは簡単である。戦争は実際には戦場に出ない狡賢い政府によって行われ、若き庶民が戦場で犠牲になるのだ、と。現在のブッシュ政権に対する批判であるだけではなく、戦争のシステムそのものに対する痛烈な批判でもあるのだ。


個人を信じてシステムを信じないのは、イーストウッド映画の常。システムに対する批判だけではなく、純粋な怒りと悲しみも込められ、映画としての存在感がある。


硫黄島の大戦闘を描いた作品は、日本人が殆ど全く出てこない本作と、日本側から描く『硫黄島からの手紙』(2006)で表裏一体を成す筈。12月公開予定の次回作も非常に楽しみだ。


父親たちの星条旗
Flags of Our Fathers