キング・コング


★film rating: A
※A、B、Cの3段階を、さらにそれぞれ+、non、-で評価しています。

不況真っ只中の1930年代アメリカ。生活が苦しい芸人アン・ダロウ(ナオミ・ワッツ)は、野心的な映画監督カール・デナム(ジャック・ブラック)に急遽女優としてキャスティングされ、撮影船に乗り込む。船は海図に無い伝説の島、ドクロ島に向かうのだ。島に到着した一行を原住民が襲い、アンは誘拐されてしまう。生贄となった彼女が見たのは、住民が神と恐れる、身長7メートルもある巨大ゴリラだった。


またしてもピーター・ジャクソンはやってくれた。『ロード・オブ・ザ・リング』3部作のパワーと技術力を結集した新作は、力強く、情熱的で、破壊的。そして笑いと慈愛に満ちた心揺さぶられる悲劇として、これからも語り継がれるに違いない。


誰もが結末を知っている物語を、どのように描くか。この映画はある方向性を徹底的に押し進めた作品でもある。


無論これは、1933年にメリアン・C・クーパー&アーネスト・B・シュードサック共同監督、フェイ・レイ主演の名作のリメイクだ。デナムが興行師から映画監督に、アンが売れない女優から芸人に、ジャック・ドリスコル(エイドリアン・ブロディ)がマッチョな一等航海士からインテリな脚本家に、と人物設定こそ変わっているが、メイン・プロットはおろか展開まで殆ど同じ。ここまで徹底したリメイクも珍しいのではないだろうか。しかし1933年版は上映時間100分。この2005年版は上映時間が186分。長さが2倍近くも増えた理由は、ドラマの濃度が濃くなったのと、拡大再生産された数々の大アクション場面による。


まずはドクロ島に着くまでが1時間と、距離感も含めて意外とあっさりしていた1933年版に比べて相当に長くなっている。アクション場面がまるで無いにも関わらず、デナムの野心やアンとドリスコルの恋模様にユーモアも絡め、ドラマを描くジャクスンの手腕は確か。冗長寸前に引っ張るだけ引っ張り、ここぞとばかりにドクロ島を登場させるタイミングも鮮やかだ。ここから映画はサスペンスに満ち、荒々しくも迫力満点の大活劇になる。


一行が島に到着してからは、まさにピーター・ジャクスンの独壇場。危機また危機の連続と、呆れるばかりのアクション連打。画面からはみ出さんばかりに暴れまわる恐竜の群れやら、巨大昆虫の大群やらの大スペクタクル連発。1933年版をなぞりながら、現代に通用する見せ物映画に作り変えたその心意気には脱帽だ。これはオマージュであり、リスペクトであり、何よりも現代の映画として面白い。にも関わらず、ここには現代の映画から失われた香りが、昔ながらの秘境冒険ものの香りが、1933年版にあって1976年版になかった胸躍らせる香りがある。


このリメイク版には、ピーター・ジャクソンの1933年版への愛に満ちている。タイトル・デザイン、真打コングの登場場面、数々の恐竜スペクタクル、マックス・スタイナー作曲の音楽の一部流用など、例を挙げたら切りがない。だから、ウィリス・オブライエンによるモデル・アニメーション技術で命を吹き込まれた巨大猿や恐竜たちが、画面狭しと暴れ回ったあの楽しさが、現代の技術で再現されているのである。アクションも1933年版を単になぞるのではなく、捻りも加えての拡大再生産なのが素晴らしい。これでもかこれでもかと、しつこいまでに徹底して怒涛の勢いで押しまくる演出には圧倒される。


男の子の映画と言えばその通り。子供っぽいと言われれば異論は無い。これは少年の心を持つ映画人が作り上げた別世界の物語なのだから。でも独りよがりの子供っぽさではなく、観客サーヴィスを強く意識した大人が作った映画にもなっている。


今度のジャクソン版が偉大なのは、一般には不評の1976年版を全くないがしろにしなかった点にもある(同作でゴリラ・スーツを製作・着用していたリック・ベイカーを、重要な場面に出演させたことにも表われている)。1933年版はアンとコングの間にあった感情は弱く、むしろコングからの片思いに見えた。恐竜スペクタクルを切り捨て(それが不評の一因でもあったが)、アンとコングの関係を一歩押し進めていたのが1976版だった。ジャクスンによるこの2005年版は、巧みに、スマートに、1976年版をも取り込んでいる。アンとコングの関係を掘り下げることが、現代版として映画化する必然だったとは言え。


よって今度のコングは、アンとの愛を育むのに相応しい、観客側がたっぷりと感情移入出来る主役となり得ている。最新技術で細かに造形され、演技を付けられたコングは、自分の感情をコントロール出来ずに粗暴になる時もあるけれど、数々の戦いで傷を負った歴戦の戦士で、いざとなれば頼もしくもヒロインの危機を救う、竹を食む菜食主義者(本物のゴリラは殆ど肉を食べません)であり、年取って孤独な、滅び行く種族最後の1匹として描かれている。口数の少ない、孤高のヒーロー。男の子の憧れそのもの。それがこの映画のコングだ。


コングとアンの交流を深めていく様子に説得力があるのは、上映時間が長くなったことによる恩恵だ。笑いを交えながらも、観客に媚びることなくがっちり描く高度な演出・脚本・演技を見るにつけ、この種の映画の最高峰を見る思い。池が凍った公園でのロマンティックな場面や、最後の朝焼けの場面は、美しくも儚い夢として心に残る。アン役ナオミ・ワッツは元々不幸の似合う美人だが、この映画に似つかわしいルックスだけではなく、持ち前の演技力を全開に披露し、コングと共に観客の感情に訴えかけるコラボレートを行っている。1933年版のフェイ・レイが、スクリーム・クイーンに徹していたのとは別物だ。


想いを守ろうとエンパイア・ステート・ビルの頂上で、コングが武装した複葉機編隊相手に孤軍奮闘する余りにも有名な場面の再現は、目も眩むような大アクション。握りこぶしに力が入るだけでなく、手に汗握る緊張感に満ち、爽快感と胸が張り裂けそうな悲しみを湛えていて、映画の最後を飾るに相応しい、ドラマチックな盛り上がりを見せる。


人間の横暴さ、傲慢さがもたらした悲劇は、いつの時代にも通用する普遍的な古典として鮮やかに現代に蘇った。是非、劇場の大画面で巨大猿に声援と同情を送って頂きたい。


キング・コング
King Kong