ミリオンダラー・ベイビー


★film rating: A+
※A、B、Cの3段階を、さらにそれぞれ+、non、-で評価しています。

孤独な老トレーナーでボクシング・ジムのオーナーでもあるフランキー(クリント・イーストウッド)は、31歳の極貧ウェイトレスのマギー(ヒラリー・スワンク)からボクシングのトレーニングを乞われる。女だからと断るフランキーだが、食い下がるマギーに根負けして、トレーナーを引き受けることに。やがて才能を開花したマギーは連戦連勝街道を驀進し、2人の間には絆が芽生えてくる。試練のときがやってくるとは知らずに。


無駄の無い台詞とキャメラワーク。冷静でいながらユーモラス。クリント・イーストウッドの演出は一切の虚飾を排してシンプルなのに、何と豊穣な作品に仕上がったのだろうか。5月31日で75歳になる巨匠は、キャリア幾度目かの絶頂期にあり、既に神がかり的な域にまで達しているようだ。


前作『ミスティック・リバー』(2003)は非の打ち所の無い、神の視点から人間を見下ろす冷たさが印象的な、言わば研ぎ澄まされた作品だった。今作では神からの視点の代わりに、等身大の人間を見つめる温かさがある。フランキーの相棒でもあるスクラップという老人が語り部なのも、その要因だろう。名優モーガン・フリーマン扮するスクラップは、普段は掃除や雑用など大した仕事をしていない様子。にも関わらず、ジムにとって不可欠な人間なのは明らかだ。周囲をよく観察し、フランキーも含めて他人と他人との間で潤滑油のような役割を果たす男。フランキーとは付かず離れずの夫婦のよう。イーストウッド映画は、無駄を削ぎ落としているにも関わらず弛緩した時間が流れるのが特徴の1つだった。今作では、モーガン・フリーマンのリズミカルで深みのあるナレーションにより、映画に温かみとテンポが加味された。


フランキーは娘に毎週手紙を送っているが、手紙は受け取り拒否で返送されて来る。疎遠になった訳は分からないが、フランキーはそのことを悔いており、毎日教会に通っている。神の教えに疑問を持ちながら。アイリッシュで敬虔なクリスチャンである彼は、滅び行く言語であるゲール語を学んでいる。それは自ずと彼自身が滅び行く人種であることも示している。


マギーは客の残した食事を持ち帰って食べる生活を続け、故郷には無知・無理解なホワイトトラッシュの典型的家族がいる。心に唯一の理解者であった亡き父を思い描きながら、過酷な現実に屈せず、ひたむきに己の道を切り開こうとする。


このように、映画は人物の輪郭をくっきり描いている。しかし過度の内面説明は行わない。全ては観客の知性に委ねられているのだ。脚本の緻密な構成では『ミスティック・リバー』のブライアン・ヘルグランドの手腕には敵わないものの、ポール・ハギスは人物の内面をすくい上げつつ、全てが必然となる要素をまとめ上げた。悪役ボクサーの描き方が類型的だったり、マギーの家族が偽悪的に描かれていたりで気になるところもあるが、彼らは飽くまでも脇役=記号としての役割なので、その描写も納得出来る範疇にある。


主演3人は全く素晴らしい。イーストウッドは過去の贖罪を背負って生きるというお馴染みの人物像を、普段よりかすれ気味の声と微妙な表情で静かに演じている。この人の、画面に出るだけで背負ったものを感じさせる佇まいは、幾ら演技巧者な役者でも出せないものではなか。モーガン・フリーマンも基本的に静の演技だが、そこに込められた他人への思いやりや思慮深さを控えめに表現している。彼ら美しき老人たちに対し、真っ直ぐな瞳の持ち主であるヒラリー・スワンクは、動的な演技で押す。大ヴェテラン2人を向こうに攻めの演技で堂々と渡り合うのだ。かと思いきや、一転して静の演技でも心打つものがある。紛れも無くこれは彼女の代表作になった。


フランキーとマギーが出会い、孤独の暗闇で灯した仄かな明かりは、まばゆいばかりの輝きを伴うようになる。血の繋がらない者同士が築き上げた強い絆は、実の親子よりも強い。やがて彼らはある決断を下す。それは、人はどう生きるか、という命題でもある。だから彼らが下した決断は、社会的なテーマではなく、飽くまでも個人的なものだと解釈すべきだろう。そこに至るまでも周到に描かれている為に、感情的な共感が出来ない観客が居たとしても、十分に納得がいくのではないかと思った。


達観したナレイション。飽くまでもリアリズムの範疇でありながら、光と影の強烈なコントラスト、暗闇の中のさらなる影、といったイーストウッド作品らしい撮影。イーストウッド自らが作曲した、ギターとピアノの静謐そのものの音楽。説得力ある登場人物たちの行動と、パズルのピースがはまって行くかのような展開。不要な要素が無く、描かれているもの全てが必然とされる作り。物語は闇から光の中へと消えていき、神話へと昇華させて終わる。いかようにもドラマティックな演出が施せる物語を、イーストウッドは醜い感傷で盛り上げることなく、淡々と描いた。ここで好き嫌いが分かれることもあろう。決して万人向きの作品ではないかも知れない。だがそこに流れる温かな視線をすくい取るのは、観客の役目でもあるのだ。


声高に絶賛を叫ぶのは、この静かで熱い作品には似つかわしくない。それでも、劇中に登場するゲール語の「モ・クシュラ」と共に、観た者の心奥底にまで響く作品としてお薦めしたい大傑作である。


ミリオンダラー・ベイビー
Million Dollar Baby

  • 2004年/アメリカ/133分/画面比2.35:1
  • 映倫(日本):PG-12指定
  • MPAA(USA):Rated PG-13 for violence, some disturbing images, thematic material and language.
  • 劇場公開日:2005.5.28.
  • 鑑賞日:2005.5.28./ワーナーマイカルシネマズ新百合ヶ丘2 ドルビーデジタルでの上映。公開初日の土曜21時20分からの回、280席の劇場はチケットがほぼ完売。
  • 公式サイト:http://www.md-baby.jp/ 公開初日の夜はえらい重かったが(アクセス集中?)、普段は大丈夫のよう。「SPECIAL」コーナーには、恐らく来日したイーストウッドへのインタヴューが掲載されると思われる。壁紙、予告編、感動コメントを書いてイーストウッドの直筆サインもゲットできる企画あり。