ボーン・スプレマシー


★film rating: A
※A、B、Cの3段階を、さらにそれぞれ+、non、-で評価しています。

あれから2年。元CIAのジェイソン・ボーンマット・デイモン)は、南国で恋人マリー(フランカ・ポテンテ)と幸せな日々を過ごしていた。だが楽園は終わりを告げた。謎の殺し屋(カール・アーバン)に襲撃され、CIAにも身に覚えの無い情報局員殺害容疑で追われることになったのだ。ボーンはアメリカに帰国し、敵に近付く。真相と、失われた己の過去を知るため。そして復讐のために。


記憶喪失のCIA工作員を主人公にした前作『ボーン・アイデンティティー』(2002)は、それまでマイナーな低予算映画しかなかったダグ・リーマンの小気味良い演出と、マット・デイモンの意外にも切れの良いアクションが話題になり、ヒットした。続編では監督がリーマンから、ドキュメンタリ出身のこれまた知名度の低いアイルランド人監督、ポール・グリーングラスに交代。これが成功で、迫力と面白さで前作を凌駕している。


個人的な好みを言うと、全編手持ちキャメラ撮影のぐらぐら映像は、余り好きではない。また最近の大作映画にありがちなアクション場面での接写細切れ編集は、何が何やら分からずにガチャガチャとせわしないだけで迫力も何も無く、余り好きでないどころか大嫌いである。この映画も、撮り方だけ見れば最近の駄作アクション映画と似ている。物語が進むにつれて手持ちキャメラは不安定さを増し、アクション場面では接写細切れ編集になっていく。特にクライマクスのカーチェイス場面では、何が起こっているのやら分からないほど。なのに映画に凄まじい迫力をもたらし、成功しているという、稀有な例となった。


映画はボーンの視点で描かれている場面が多いため、不安定な主観的映像の使用は理解出来る。特に記憶喪失となっているボーンに襲い掛かる過去の記憶場面も含め、映像の断片化が目立った作りになっている。それら断片が1つになり、真相が明らかになったとき、映画は加速度的に勢いを強め、クライマクスを迎える。必然性のあるこういった使用方法ならば、ぐらぐら映像も歓迎したい。グリーングラスの演出タッチはU2のラリー・ミューレンのドラムスのよう。豪胆にビートを叩き出し、場面場面を緊迫感のある糸で繋ぎ、映画全編を力強く盛り上げていく。前作は演出がタイト過ぎて窮屈な印象さえあったのだが、今作では贅肉が無いにも関わらずケレンを忘れず、より娯楽映画らしくなったと言える。


殺人マシーンのボーンが、ありとあらゆる技術を使って状況を打破し、敵に近付いていく様は、上質の娯楽スパイ・スリラーとして痛快だ。幾つもの謎が次第に紡ぎ合わされていく脚本は、全体としては意外性に満ちている訳ではないものの、その場その場で観客の興味を引っ張る工夫が見られる。そもそも、自分を追う敵にこちらから近付いて行く、というプロットが面白い。最近の大作に珍しいタイトな構成、無駄の無い筋運びと描写は前作譲り。前作も担当したトニー・ギルロイの功績は大だ。演出と脚本が上手く合わさった映画の好例だろう。


マット・デイモンは元非情なスパイという割りには隣のお兄さんタイプだが、必要最小限の台詞とキビキビとした動きで、アクション映画の主人公に相応しい。前作の殺し屋役クライヴ・オーウェンに負けじと、今回の敵役カール・アーバンも不気味な雰囲気が良いし、ボーンを追跡しつつも真相も追いかけるCIA局員役ジョーン・アレンも演技に切れのある好演だ。


破壊の後に訪れるのは、殺人マシーンだったボーンの人間性回帰。彼の選択した行動が人間味を滲ませ、映画に余韻を残す。ここに凡庸な娯楽アクション映画との違いを際立たせた。


ロバート・ラドラムによるジェイソン・ボーン3部作の原作は、残り『最後の暗殺者』となった。これから作られるであろう映画版には、自らを探す旅の終着点として、是非有終の美を飾ってもらいたいものだ。


ボーン・スプレマシー
The Bourne Supremacy