ヴァン・ヘルシング


★film rating: C+
※A、B、Cの3段階を、さらにそれぞれ+、non、-で評価しています。

ドラキュラ伯爵(リチャード・ロクスバーグ)は、フランケンシュタイン教授に作らせたモンスターを使い、この世を闇に落とし込めるべくある陰謀を企んでいた。モンスター・ハンターとして悪名を轟かせていたヴァン・ヘルシングヒュー・ジャックマン)はバチカンの命を受け、一族をドラキュラに殺害されて復讐に燃える王女アナ(ケイト・ベッキンセール)と共に、陰謀を阻止せんとする。


ハムナプトラ』シリーズで一躍名を馳せたスティーヴン・ソマーズは、今度も同じ手法で大ヒットを目論んだようである。つまり、ユニヴァーサルの怪物ライブラリからミイラ男を引っ張り出し、特撮を駆使した冒険活劇ものとして再映画化したあちら同様に、今度はドラキュラ伯爵、フランケンシュタインの怪物、狼男を起用した訳だ。スターはそれだけでは足りないとばかりに、主役に「おヒュー様」ことヒュー・ジャックマン、『アンダーワールド』(2003)で吸血鬼だったケイト・ベッキンセールヘルシングの秘密兵器開発係に『ロード・オブ・ザ・リング』3部作のファラミアことデヴィッド・ウェンハムと、この所の注目株(但しウェンハムはファラミアと違ってコミック・リリーフ役)までかき集めている。


ヴァン・ヘルシングといえば、ブラム・ストーカーが生み出したドラキュラ伯爵の宿敵としても映画ファンにはお馴染みだろう。極め付けクリストファー・リーの『吸血鬼ドラキュラ』(1958)ではピーター・カッシングが、最近ではコッポラの『ドラキュラ』(1992)でアンソニー・ホプキンスが演じていた。個人的にはカッシングのヘルシング教授像が強烈で、大学教授らしい知性と怪奇映画に似つかわしい薄気味悪さ、ありとあらゆる手段でドラキュラを追い詰めんとする執念が印象に残っている。


今度のヘルシングは教授ではなく、若々しく活動的なハンターとして登場する。一部で指摘されているような『吸血鬼ハンターD』との類似点も気になる。なるほど、黒い長髪、黒い幅広つばの帽子、黒いコートのいで立ちは、天野喜孝の描くイラストを意識したものかも知れない。さらにはこちらのヘルシングも何やら宿命を背負っているようだが、次回作が作られるようならばその正体が明かされる、ということなのだろう。


演ずるジャックマンは、今や大画面と舞台で映える勢いのあるスターだ。時にニヒル、時にエレガントで、知性と野性を兼ね備え、大人でありながら少年の茶目っ気も忘れていない。彼がヘルシングとして主役を演ずる大作ホラー・アクションとなれば、『X-メン』のウルヴァリンより出番も多い筈だし、きっとスターの魅力全開で楽しめるに違いない!


ところがどうしたことか。この映画のジャックマンはてんで魅力的でない。画面映えするのはさすがだが、これは一体どうしたことか。答えは簡単。この映画、矢継ぎ早のCGアクションの連打ばかりで、その合間に俳優の台詞がある程度、これじゃ役者は演技も魅力も披露のしようが無いし、そもそもモンスターとみれば飛び道具で撃ちまくるしか能の無い男の役では、ジャックマンにとっても才能の浪費だ。


ドラキュラ役リチャード・ロクスバーグは、『M:I-2』(2000)や『ムーラン・ルージュ』(2001)などの小賢しい悪党は似合っていたが、色香と貫禄を魅せるべき吸血伯爵には荷が重かった。それにユニヴァーサル3大怪物とは言うものの、物語上必然なのはドラキュラとフランケンシュタインの怪物だけで、狼男は取って付けたよう。人狼の呪いを受けるアナの兄(バレエ・ダンサーのウィル・ケンプ映画デヴュー)の描き方も、呪いの苦しみを描く訳でもなく、全く不必要な存在。この手の大作なのに画面サイズが1:1.85なのも、スケール感を減退させている。


ソマーズは『ハムナプトラ』の大ヒットで勘違いしたのだろう。大掛かりなCG特撮とアクション連打で見せれば、観客の心を掴めると。しかし幾らなんでもここまで大雑把だと、商魂意外に魂の無い工業製品でしかない。


繰り出されるアクションは、役者の動きを特撮で補完したものばかりなので、実体感がまるで無い。確かに高度な技術を用いてはいるが、全編それをやられるといい加減飽きがくる。映画の冒頭、フランケンシュタイン博士の城で怪物誕生のくだりを黒白画面で見せてくれた期待感は、お子様ランチな展開が進むにつれて塵と消え失せる。終盤には幾ら何でも荒唐無稽というか、ご都合主義ここに極まれりのアクションばかりで、あきれを通り越してどうでも良くなってきた。


ソマーズ演出はいつも以上に凡庸で雑、コメディ部分も全く詰まらない。ヒットの公式を寄せ集めたこの映画、特撮ばかりの箱庭的お子様向けとしての価値くらいしかない。


ヴァン・ヘルシング
Van Helsing