キル・ビル


★film rating: A-
※A、B、Cの3段階を、さらにそれぞれ+、non、-で評価しています。

婚約者とお腹の中の子供を殺され、自らも瀕死の重症を負った元殺し屋(ユマ・サーマン)。復活した彼女は、自分の幸せを奪った殺し屋たちと組織のボスであるビルへの復讐に立ち上がる。


クエンティン・タランティーノ6年振りの新作は、血しぶきと過激なギャグ満載のゴッタ煮映画となっている。この映画を素直に楽しめないとすれば、次のような幾つかの要因が考えられる。

  1. タラが強い影響を受けたアジア製アクション映画(特に1970年代のもの)へのオマージュ満載。って言われてもなぁ。元ネタを知らないので分からないよ。
  2. 余りにも超ヴァイオレンス。首が飛び、手足が切られ、壊れた水道管にように血しぶきが吹き出る。ちょっとやり過ぎじゃないか。
  3. なんじゃあの日本は。バカにしおって。日本人は皆、日本刀なんぞ持ってないわい!


御意見ごもっとも。


映画的素養というのか個人によってかなり違うもの。なのにタダでさえ偏りのある個人的趣味を大金注ぎ込んで自分の映画でぶちまけているのだから、引いてしまう人がいるのも当然だ。実際、僕も殆ど元ネタが分からなかった。たまに「あ、ブライアン・デ・パルマの『殺しのドレス』のパロディだ」などと笑える程度。でもこういったパロディのネタを知らなくても、要所で笑える場面が散りばめられている。特に、この映画を世界で一番楽しめるのは日本人だろう。クライマクスに流れる梶芽衣子の演歌『修羅の花』(小池一夫原作の『修羅雪姫』(1973)主題歌)なんて、映像に歌詞がはまり過ぎ。大爆笑必至の名場面だ。


近年稀に見る出血多量の画面については、余りに劇画チックで非現実的な描写が多いので、かえって生々しさが無い。片腕斬られてあんなに血が吹き出ていたのに何でまだ生きているんだ、などと突っ込み入れるのも良し。和製時代劇映画の様式美そのまま、と思うのも良し。まア確かに、こういった描写が観客を著しく制限するであろうが。


全くの荒唐無稽かつ非現実的な日本の描写に関しては、これはもうタラの頭脳内で作り上げられた世界なので、不思議と気にならない。この映画の世界では、旅客機の国内線に日本刀持込可でも、引退した伝説の刀鍛冶・服部半蔵が沖縄で寿司屋をやっていても、鎖付き鉄球を振り回す制服姿のコギャル殺し屋がいても、何の問題も無いのである。


そんな訳で香港クンフー映画や東映ヤクザ映画、東宝怪獣映画の知識が無くとも、復讐に燃える女刺客が暴れ回る笑えるアクションと割り切れば、この映画を楽しめる可能性も高くなる。『レザボア・ドッグス』(1992)、『パルプ・フィクション』(1994)のように時制や場所を入れ替えるスタイルは健在で、そのシャッフルするリズム感は絶妙だ。観ているこちらは自分がどの時点にいるのか分からなくなるが、それが映画を難解にしてはいない。混沌とした映画の迷宮に誘う遊び的手段、と割り切れば良いのだ。こういったテクニックが目立つことが証明するように、いつも通りこの映画の主役は監督・脚本をこなすタラ。そして彼の映画への情熱そのものなのが主役なのである。


派手な爆発アクションばかりで人物が詰まらない映画がばっこする世の中で、相変わらず各キャラクターの描き方はしっかりしている。ヒロイン役ユマ・サーマンUmaは断じてユマじゃないからね)は、復讐に燃える冷酷非情なヒロインに時折チャーミングさを加味して完璧。ブルース・リーな黄色地に黒線のジャージを着て大暴れし、長い手足と背の高さが映像的にも映える。千葉真一の大袈裟で力みの入った演技も作り物の世界にぴったり。ルーシー・リューのヤクザ姉御も切れが良いし、栗山千明の女子高ルックな殺し屋の暴れっぷりも見応えがある。各人の演技を引き出すタラの手腕は申し分ない。飛び交うアヤしげな日本語もご愛嬌。唯一完璧な日本語を話すジュリー・ドレフュスも、それを逆手に取った可笑しさ。過去の作品にあったような無駄口駄口の長台詞は陰を潜めたものの、登場人物を浮き立たせる気の利いた魔術的な台詞はいっぱいあるのだ。


長台詞が切り落とされたかといって、物語を停滞させる贅肉が全く無くなったかと言えば、そうじゃないのもタラらしい。1970年代風の泥臭い線で描かれる和製アニメのエピソードを十数分も見せる必要があるかどうかと言ったら、そりゃ無いだろう。しかしこれもゴッタ煮映画の一部として違和感無く、愉快な贅肉として機能しているのだから面白い。単にアニメ監督をしたかったという願望を満たす為だけとは言え、この映画全体が既に願望の具現化そのものなのだから、ここまで徹頭徹尾やってくれれば大したものだ。


映画のクライマクスである100人斬りは、笑いを交えながらも殺気みなぎる大迫力。タラが正面切ってアクションを描くのは今回が初めてなので、下手で軟弱になっていやしないか、と鑑賞前の不安もなんのその。その不安は既に序盤での女同士の大立ち回りで解消されていたが、まさかこれだけの緊張感と迫力をもたらせるとは。ヒロインが何十人も相手に闘うときは、絶え間ない技を繰り出す中国映画風の振り付け(ワイヤーワークあり)で見せ、懐かしや『少林寺三十六房』(1978)のリュー・チャーフィー改めゴードン・リューも暴れ回る。1対1の闘いだと、ちゃんと呼吸と間合いを計る日本の時代劇風になっているのにも感心した。


そこに畳み掛けるように流れるB級C級映画音楽から往年の古臭いポップスまで、場面に合った音楽の使い方はやっぱり最高。どこを切っても俺様印の刻印が押されている。


このように楽しめる点は随所にあり、観ている間は面白いのだが、鑑賞後の印象はかなり薄い。こちらの身体を貫くような映画的興奮という点でも、映画史に残る巧みな話術が光る『パルプ・フィクション』には及ばない。しっとりした大人の情感を描いた『ジャッキー・ブラウン』(1997)から退行したかのような、血まみれ趣味復活どころかパワーアップを観るにつけ、作家的後退と言う向きもあるだろう。また、意識不明の女性をレイプする看護夫への成敗といった、現実的な設定の場面は無用で不快、非現実的なこの映画に水を差している。ヒロインへの感情移入がしづらいのも難点だが、そもそも大作だったのを2分割して公開しているので、これは続編を観るまで何とも言えない。


このように色々と気になる点はあるものの、この映画には活劇に不可欠な要素、すなわちパワーがみなぎっている。今までに無くジャンル映画への偏愛を末梢神経にまでぎっしりと詰め込んだ趣味大全開の作風に、アクション演出という新境地も乗せて、『Vol. 2』もこの調子で乗り切ってもらいたい。ラスト・シーンも上手く、続編への期待値を上げる。


キル・ビル
Kill Bill: Vol. 1

  • 2003年/アメリカ/カラー/113分/画面比2.35:1
  • 映倫(日本):R-15指定(ジャパニーズ・ヴァージョン)
  • MPAA(USA):R for strong bloody violence, language and some sexual content.(American Version)
  • ジャパニーズ・ヴァージョンと呼ばれるアジア圏用は暴力描写もノーカット、北米公開版は成人指定を避ける為に血しぶきが赤でなく黒だったり、モノクロ映像になったりするらしい。
  • 劇場公開日:2003.10.25.
  • 鑑賞日:2003.10.25./ワーナーマイカル新百合ヶ丘1/ドルビーデジタルでの上映。公開初日の土曜21時5分からの回、452席の劇場は9割程度の入り。
  • パンフレットは800円。タラ、ユマ、日本人スタッフらへのインタヴュー、トリヴィア解説、音楽解説等、内容充実もりだくさん。
  • 日本版公式サイト:http://www.killbill.jp/ 壁紙、予告篇、BBS、タイピング&クイズのゲーム(効果音が気持ち良い)、ど内容盛りだくさん。但し、どこに何があるのか分かり難いのが難点。24分以上もあるタラや主要キャスト(ユマ・サーマンルーシー・リュー千葉真一栗山千明ジュリー・ドレフュス)らのジャパン・プレミア動画を観ると、かなりノリノリの舞台挨拶だった模様。ゲストにタラも緊張しているのが可笑しい。
  • 北米版公式サイト:http://www.kill-bill.com/ 2部作であることを生かし、まずはトップページに大胆なレイアウトを持ってきたのが目を引く。「ローディング」などという表示も含め、日本語があちこちにあるサイト。服部半蔵の台詞も日本語と英訳で表示される。
  • ついでに・・・千葉真一映画への熱い思いを語っているコラム「君は世界のヒーロー、ソニー千葉を知っているか?」http://www19.big.or.jp/~k_kiku/column/column_chiba.html 上記ページのリンク先「→ジャケットはこちら」によると、「アメリカンネームのソニー千葉というのは「アメリカでもっとも有名な日本のネーミング」という事から「ソニー」と命名。しかし、当然のようにクレームがつき外国では「SONNY」と綴りを変え、国内ではアメリカンネームを「サニー千葉」と名乗った。」のだそう。それにしてもこのサイトの情報量といい、熱い思いたぎる文章といい、読み応えあり、笑い応えがあり、だ。個人のパワーを実感するという点では、タラと良い勝負かも。