アイリス


★film rating: A-
※A、B、Cの3段階を、さらにそれぞれ+、non、-で評価しています。


「イギリスで最も素晴らしい女性」と言われた小説家で哲学者のアイリス・マードック。しかしアルツハイマーは明晰な頭脳と豊穣な言葉を彼女から奪ってしまう。夫のジョン・ベイリーが見守る中で。


映画は老夫婦の緩やかな別離と、若い2人の出会いから結婚までを交互に描いている。通常ならば映画2本分の濃密な内容なのに、上映時間が91分というコンパクトなのも、この同時進行の構成によって余計な説明なぞが無いゆえ。度々の来日公演もある著名な舞台演出家であるリチャード・エアの演出は手際良く、達者な役者たちから的確な演技を引き出している。しかも事前に危惧された、舞台人が映画を撮ると閉塞的空間に陥るということもまるで無く、映像的にも実に手馴れたもの。若い恋人たちが川の中を裸で泳ぐ意表を付いたタイトルバックの映像からして冴えている。また凝った構成にも関わらずスタイルに捕らわれることなく、ドラマ映画として充実したものになっていた。


現在のパートではアルツハイマーにより個が失われていく様子が克明に描かれているが、誇張されたお涙頂戴にならない、押さえた演出で非常に好感が持てる。過去のパートでは、才気活発で奔放なバイセクシュアルのアイリスと、女性との経験も無い地味なジョンとが、互いに惹かれていく様を描いていて、暖かくも適度に離れた視点が心地良い。これが作品を必要以上に湿っぽくしていないのだ。


さすがに老アイリス役ジュディ・デンチと老ジョン役ジム・ブロードベントは素晴らしい。アイリスは流暢かつ雄弁だったのに言葉がつかえていき、自己の喪失を覚悟する。やがて彼女は子供に戻り、肉体の抜け殻となってしまう。雨の街中を徘徊するジュディ・デンチの有無を言わせぬ説得力を、本当の迫力と言うのだ。最初は妻がアルツハイマーであることを心理的に拒否するジョンも、次第に現実を受け入れ、時にはストレスを爆発させることがあっても懸命に介護しようとする。ブロードベントは老けメイクと仕草で老人に成り切っているが、外見だけでなく真摯な演技を見せ、観客の心を揺さぶる。登場人物それぞれが押し付けがましくない優しさを持っているが、中でもブロードベントはその色が顕著。映画に柔らか味を与えている。


山あり谷ありの若い恋を描いた過去のパートでは、若きアイリスを演じるケイト・ウィンスレットが眩い光を放っている。大学の華でありながら他人に全てを見せないアイリスが、ジョンにありのままの自分を受け入れて欲しいと願う場面が白眉。影もあるのだけれど、彼女の放つ明るさが作品にバランスをもたらしている。一方、ジム・ブロードベントにそっくりなヒュー・ボナヴィルは損な役回り。脚本の描きこみ不足のせいで、若いジョン・ベイリーの個人的な魅力が今一つ伝わってこない。何故、引く手あまたのアイリスは彼を選んだのか、もう少し説得力が欲しいところだ。


ジェームズ・ホーナーの音楽はジョシュア・ベルのヴァイオリンをフィーチャーしていて、地味ながら映画全体の底にある種の情感を流している。過去の引用と他人のパクリが全ての作風なので、毎回「騙されないぞ」と緊張感を持ちつつ聴くのだが、映画に合わせるスコアリング技術の高さだけはさすが。全く困った映画音楽作曲家だが、今回は悔しいかな、貢献度を認めない訳にはいかない。


在宅での痴呆症介護という切実な問題を描きつつも、一組のカップルの出会いと別れを描いたラヴ・ストーリーに収斂し、しかも生と死を正面から見据えた作りは正に職人技。堅実な演出と優れた演技により、『アイリス』は小ぢんまりとしているものの心に残る、見応えある佳作となっている。


アイリス
Iris

  • 2001年 / イギリス、アメリカ / カラー / 91分 / 画面比:1.85:1
  • 映倫(日本):指定無し
  • MPAA(USA):Rated R for sexuality/nudity and some language.
  • 劇場公開日:2002.12.7.
  • 鑑賞日時:2002.12.29.
  • 劇場:シネスイッチ銀座1 ドルビーデジタルでの上映。公開4週目の日曜夕方の回、273席の劇場は7割程度の入り。
  • パンフレットは600円。主役4人のインタヴュー、母をアルツハイマーで亡くしたリチャード・エアによるジョン・ベイリーへのインタヴューを収録。
  • 公式サイト:http://www.shochiku.co.jp/iris/ 内容はパンフレットとほぼ同内容、加えて各国でのレヴューなど。