地獄の黙示録・特別完全版


★film rating: A-
※A、B、Cの3段階を、さらにそれぞれ+、non、-で評価しています。

米軍のエリート軍人カーツ大佐(マーロン・ブランド)は軍を逃走、ベトナムのジャングル奥地で原住民を集めて狂気の帝国を築き上げていた。ウィラード大尉(マーティン・シーン)は大佐暗殺の密命を受け、数名の部下を率いて帝国目指して川を上がっていく。そこで彼が見た世界は・・・。


バッバッバッバッ・・・。


冒頭でヘリコプターのローター音が劇場内右後ろから聞こえた瞬間、はっとした。『地獄の黙示録』が新版として登場したとはっきり意識させたのは、まずはデジタルサウンドにリミックスされた音だった。


ベトナム戦争を背景としたフランシス・フォード・コッポラの超大作は、戦争・狂気・混乱・暴力を描いた野心作として有名だ。それと同時に撮影現場の困難な状況も知られている(ここら辺についてはドキュメンタリ映画『ハート・オブ・ダークネス/コッポラの黙示録』(1991)に詳しい)。その一方で、退屈・難解との批判もある。サウンドリミックスに加え、全体で53分長くなったこの作品の出来栄えはどうだろうか。


この作品を観るのは3回目。最初は確か『日曜洋画劇場』でのテレビ初放映の時、2回目は10数年前に友人からビデオを借りた時だった。よって劇場のスクリーンで観るのは今回が初めて。”ワルキューレの騎行”をがんがん鳴らしてのヘリコプター隊による有名なベトコン村襲撃シーンは、さすがに大画面では凄いものだった。特に映画の前半は、演出に自信と力が満ち溢れている。また時折挿入される笑いも良い。重苦しい作品に光明を差すとまではいかないが、苦いユーモアが状況を的確に表現している。


映画全体を靄のように覆っているのは文字通り負のイメージだが、ラストにさり気無く救いが描かれているのは見逃せない。徐々に無垢な心を蝕まれていく若いランス(サム・ボトムズ)が救われるラストに、未来への希望が託されているのだ。


全体に計算し尽くされた映像と音響の求心力は見事なものだ。ヴィットリオ・ストラーロの撮影はアクション場面はダイナミック、ドラマ部分は固定やトレードマークの横移動を駆使し、細心の注意を払われた照明は各シーンの情感を際立たせている。フランシスとその父カーマイン・コッポラによるアナログ・シンセサイザー音楽は、オリジナルだけでなく時に既成のクラシック曲をアレンジしたのも用い、分厚い電子音がサイケデリックな雰囲気を醸し出している。ウォルター・マーチの編集と効果音は、静と動のコントラストで作品に変化を加えようとしている。


派手なシーンはテレビでも迫力が伝わるが、こういった細部を体感出来るのは劇場ならでは。スタッフ達はあらゆる手を使って観客に戦争を体感させようとしている、とはっきり分かるのだ。


オリジナル版は1979年公開作品なので、若きキャストを観る楽しみもある。暗殺者ウィラードを好演するマーティン・シーンが、時折息子のチャーリーそっくりな顔に見えるのにどきりとさせられるし、ウィラードに指令するジョージ・ルーカス大佐を演ずるハリスン・フォードは若い。まだ少年だったラリー¥フィッシュバーン(ローレンス・フィッシュバーン)に『マトリックス』(1999)のモーフィアス役の貫禄を見付けるのは難しいし、ヘリコプター隊を率いるキルゴア中佐役ロバート・デュヴァルの精悍な台詞回しはさすがだ。若きスコット・グレンも顔を出すし、撮影当時にラリッていたデニス・ホッパーは今と左程印象が変わらないのが可笑しい。また、序盤でコッポラ自身が取材班の監督として顔を出しているのにも笑わされる。


新たに追加された細かい部分はあちこちで気付きましたが、まるまる付け加えられたシークエンスは2つある。オリジナル版では、台詞のある女性が殆ど登場しなかった。


1つ目のシークエンスは基地の米兵達を熱狂させたプレイメイト達との再会場面。ウィラードらが川を上ると、ヘリコプターの燃料切れで立ち往生している彼女達に出くわす。彼らは燃料と引き換えに彼女達の身体をもらうのだが、雨がしとどと降る中でのこのくだりは物悲しさを感じさせる。身体だけでしかプレイメイトを見ない男たちと、自分について喋り続ける女が対照的だ。


2つ目は、霧の中に突如現れたフランス人プランテーションのくだり。先祖代々の土地を守るべく残るフランス人達とのディナーで、ウィラードはフランス人達から無意味な戦いを続けるアメリカについて、痛烈な批判を浴びせられる。アメリカ以外の外国からの視点という意味で興味深い場面だが、そのフランス人達の土地も元々はベトナム人のものだった筈。複眼的な視点でベトナム戦争を描くという意図は分かるが、それも白人からのものに限定されている、映画全体にベトナム人からの視点がすっぽり抜け落ちている為に、違和感を感じた。


ディナーの後にウィラードと若き未亡人(オーロール・クレマン)との甘美な一夜がさらりと描かれるが、この映画に出てくる女性達は皆物悲しさを漂わせているのに注目したい。『ゴッドファーザー』シリーズでも、女性は皆、自己主張を持っていても、結局は男達に排斥されてしまう。でも血を流して死んでいくのは男ばかりで、生き残るのは女達なのだ。これは本質的に男らしい作品を作り続けてきたコッポラの持つ男性像・女性像なのではないだろうか。


上記2つのシークエンスは長いものだが、退屈させることなく、作品に深みを与えたり、浮かび上がらせるものがあったりで、追加されて当然だっただろう。しかし映画の終盤、カーツ大佐の帝国に到着してからの追加場面は、オリジナル版の欠点を帳消しにはしていない。


この作品最大の欠点は、カーツ大佐の存在に現実感が無い点だ。マーロン・ブランドーは台詞も憶えて痩せて来る筈が、台詞も憶えず、ジャングル奥地に潜む軍人に見えないくらいぶくぶくに太って撮影現場に現れた。コッポラらは太っているのではなく大男に見せようとローアングルで撮影したりで、苦労したと伝えられる。その為にブランドーの場面だけ違和感があり、マーティン・シーンと一緒の場面は殆ど別撮りにしたよう見えるのだ。狂気の帝国を作り上げていると言われたカーツですが、ベトナム戦争自体を混乱と狂気渦巻く世界として描き、そんな中でカーツだけが狂気と言えるのか。それを際立たせる為には、カーツという男の持つ力・魅力を出さなくてはいけなかった筈。しかし画面に映るのは、太って台詞をぶつぶつ言うかつての大スターの姿だけなのだ。


また、映画の製作過程で結末が見えなくなってしまったコッポラの混乱が、映画に現れているのは間違いない。カーツの帝国が不穏な空気に支配されているのはドラマとしてだけではなく、コッポラの自信を失った演出にもある。終盤で一挙に魅力を失い、映画が退屈さに陥るのはその為なのだ。


それでも、失敗や欠点が露骨にあってもこの作品が輝きを放つのは、今では撮影不可能であろう壮大な場面の数々や、作品の持つスケール感・内容、観客に与える強烈な印象による。清潔過ぎて嘘っぽい工場製品のような大作映画ではなく、スタッフやキャストの熱気や感情が伝わる作品は、ハリウッドではもう作られないのだろうか。


地獄の黙示録・特別完全版
Apocalypse Now Redux

  • 2001年 (1979年) / アメリカ / カラー / 202分 / 画面比:2.35:1
  • 映倫(日本):指定無し
  • MPAA(USA):Rated R for disturbing violent images, language, sexual content and some drug use.
  • 劇場公開日:2002.2.2.
  • 鑑賞日時:2002.3.16.
  • 劇場:東宝ニューシネマ/ドルビーデジタルでの上映。ロードショーが一旦終了してから好評につき再上映されたので、その機会に行ってきた。公開初日土曜昼の回、746席の劇場は若干の立ち見も出る盛況。ところでここの劇場は、『キャプテン・スーパーマーケット』(1993)以来だと思うのだが、ガラガラの時はともかく大入りの場合はちょっとつらい。座席の前後が狭いだけでなく、床全体が平らなので前の人の頭が画面に被り易い。背が高いうちら夫婦は後ろの人達に気を使ってしまいました。
  • パンフレットは800円、40ページ以上のヴォリュームに、立花隆小中陽太郎らの論評、詳細なプロダクション・ノート、コッポラへのインタヴューなど、資料価値は大です。劇場では初公開時の復刻版も販売されていました。
  • 公式サイト:http://www.apocalypse.jp/ やはり出ました、ヘリのローター音。「ベトナム戦争略史」や「新しく追加されたフッテージ」等の読み物がありますが、全てパンフレットにあるものと同じです。予告編、BBS、カルトクイズ(賞品付き)等あり。