千と千尋の神隠し



★film rating: A
※A、B、Cの3段階を、さらにそれぞれ+、non、-で評価しています。


宮崎駿の前作『もののけ姫』(1997)は兎に角力の入った作品だった。力み過ぎてとっちらかった部分もあり、それがまた作品に混沌としたパワーを与えている映画でもあった。今回は力みが減った分、肩の凝らない作品なっている。


好奇心旺盛な両親に引っ張られ、軟弱な少女千尋は物の怪たちの町に入り込んでしまう。両親は好奇心がアダとなり豚と化し、ひ弱な現代っ子は生き延びる為に魔女が支配する風呂屋・・・しかも神様が疲れを落とすために集う風呂屋・・・で働くことになる。


単純で地味なプロットなのに、時を忘れてスクリーンに魅入ってしまうのは、演出と映像の力に他ならない。今更言うのも野暮だが、宮崎駿の演出はパワフルで木目細やか。特に少女の性格描写の上手さに舌を巻く。高所の階段を恐る恐る下りる場面、散々つらい目に会ってから一息付いておにぎりを涙流してほうばる場面などに、そういったテクニックがよく現れている。リアリズム溢れる人物描写が根底にあるから、荒唐無稽な映像やアクションも映えるというものだ。


風呂屋でアクションだって!? 実際に映画を観ると納得すること請け合いだ。クサレ神が風呂屋にやってきて大変な騒動になるくだり、その窮地を脱すべく千尋が奮闘するシーンの手に汗握る迫力。思わず彼女に声援を送ってしまう、活劇屋本領発揮の場面だ。


映像面では妖怪と異形の神様がばっこする町や風呂屋などが素晴らしい。夜の帳が下り、影がうろつく町の不気味な情景。常に宴会状態の風呂屋の狂騒。アニメーションが別世界を描く最適な手段とするならば、この映画の世界は完璧だ。また、『もののけ姫』の動物型神様から解放されたかのような、イマジネイション溢れるクリーチャーが画面狭しと動く様は圧巻だ。たまに『もののけ』や『となりのトトロ』(1988)と同じようなデザインが見受けられたり、相変わらずのドロドログチャグチャだったり、それらが作品世界を”宮崎ワールド”たらしめているのも確かだろう。


宮崎自身による脚本は、今までとは若干違う趣。前作は難解と言われたが、今回は明らかに説明していない個所が多い。湯婆婆(ゆばーば)と銭婆(ぜにーば)の関係は、ハクは何故魔法使いになりたかったのか、銭婆のハンコは何故大事なのかなどなど、観ている間は重要な伏線と思わせるものが一切説明されていない。しかしそれらは既に些末なこと。そもそも誰が善人で誰が悪人なのかさえ、劇中では明確な提示がされていないのだ。描かれているのは混沌とした現代社会そのもの。そう考えると、これは『もののけ姫』の姉妹編とも考えられる。『もののけ』同様に回答を明示せず、そこにかえって作者の苦悩の深さを実感してしまう。だが今回は表面を娯楽で覆っているので、重苦しさ薄らいでいる。


公害問題や現代社会のコミュニケーション不全(それを代表するかのようなストーカー)なども描き、辛らつな社会批判精神は衰えることを知らず、説教臭さを感じさせながらも第一級の娯楽作品に仕上げてしまう豪腕には、もはや脱帽するしかない。また、クライマクスらしきものはさらりと流し、ラストもささっと切り上げる潔さ。2時間強の長尺なのに、矛盾した言い方だが”大作の小品”との印象さえ受ける。


こうなると常連の久石譲の音楽が過剰気味で少々耳障りだったり、CGIとアニメの融合がうまくいっていない等の瑕疵をあげつらうのは野暮というもの。欠点を遥かに凌駕する魅力を持ち得る作品だ。


千と千尋の神隠し
Spirited Away (aka: Sen and the Mysterious Disappearance of Chihiro)